機関誌『佛教文化』第223号(令和8年7月10日、東京国際仏教塾刊)は、東洋大学名誉教授の渡辺章悟先生による「大乗仏教論――二千年以上におよぶ大乗仏教の成立史と、その正統性を担保するための核心的レトリックである「転法輪」の概念とその思想的展開」の講義録のダイジェスト版を特集しています。

渡辺先生の講義は、以下の3つの具体的なテーマを中心に展開されています。

1.大乗仏教の基盤と主体

大乗の定義と特徴

「大乗(マハーヤーナ=大きな乗り物)」という語は『般若経』の系統に早くから現れ、単なる思想用語ではなく、自らの解脱にとどまらず「一切衆生をともに悟りへと導く救済の道」を意味します。大乗仏教は「空」「無所有・無生」「摩訶衍」の3つの要素を思想的・実践的・意思の根源(空・慈悲・菩提心)として深めました。また、伝統的な口承伝承から「書かれた経典(筆写)」という形式を採用したことも、大きな歴史的転換点でした。

歴史の実態と「小乗」の誤解

大乗側からの批判的呼称である「小乗(ヒーナヤーナ=劣った乗り物)」は歴史的事実の図式としては不適切であり、今日では「伝統仏教」や「部派仏教」と呼ばれます。インドにおいては大乗が伝統仏教を一挙に駆逐したわけではなく、両者は長く共存・並存していました。

主体としての菩薩

伝統仏教で釈尊の過去生などを指した「菩薩(ボーディサットヴァ)」は、大乗において「出家・在家を問わず、悟りを求め他者のために行動する者」へと拡大されました。最高の理想像が「阿羅漢(自己の完成)」から「菩薩」へと転換し、その核心には、縁起の理解から導かれる「利他行(自未得度先度他)」があります。この菩薩道を支えるのが、真理へ向かう「智慧(向上門)」と、衆生を導く巧みな手立てである「方便(向下門)」であり、両者は車の両輪として不可分に結合しています。

2.仏陀観の拡大と東アジアへの展開

仏陀の入滅後、歴史的肉体(色身)の滅亡を超えて、仏陀の教えから宇宙の真理そのものを仏とする「法身」の概念が生まれました。これが後に、以下に示す三身説へと体系化されます。

  • 法身(永遠不滅の真理そのもの:大日如来など)
    • 報身(修行の功徳の果報:阿弥陀仏など)応身(歴史的世界に現れた姿:釈迦牟尼仏)

この仏身観の拡大や、「一切衆生悉有仏性(すべての人に仏となる可能性が宿る)」という思想は、中国や日本などの東アジア仏教の重要な基調となりました。

3. 「転法輪」の概念とその思想的展開(本論)

「法輪を転ずる(説法する)」という概念は、迷いや邪説を打ち砕く象徴として大乗仏教の自己正統化(歴史的位置づけと権威づけ)の創造的な再編成原理として用いられました。

①  第一の転法輪(初転法輪)

釈尊が成道直後、鹿野苑(サールナート)で五比丘に四諦や八正道を説いた最初の説法。仏教教団の原点。

② 第二の転法輪(大乗経典の自己規定)

後世に成立した大乗経典が、自らを「仏陀による第二の真実の説法」であると大胆に位置づけた段階。

『般若経』:不可得(空)の立場から真理を提示しつつ、「第二の転法 輪」という新しさの概念そのものすらも空じていく逆説を展開。

『法華経』:霊鷲山での説法を「無上最大の法輪」として構成。

大乗版『涅槃経』:入滅の地において、従来の教えを覆す「常・楽・我・浄」を最後の大法輪として再定義。

③  第三の転法輪(唯識の教相判釈)

唯識学派の根本経典である『解深密経』などが打ち出した、教えの深さによる序列化(解釈学)。

  • 第一時:鹿野苑での四諦(未了義=不完全)。
  • 第二時:『般若経』の一切法皆無自性(虚無に陥る危険があるため未了義)。
  • 第三時:これらを踏まえ、真理を隠すことなく明白に説き示した唯識の立場(了義=究極の教え)。

結論

「転法輪」とは単なる最初の説法を指す歴史用語にとどまりません。

大乗仏教においてそれは、次々と現れる新たな経典や教理を「仏説」として歴史の中に位置づけ、正当化し、体系化していくための「最も重要な編成原理であり、思想的結節点(キー概念)」であったといえます。                

(文責  東京国際仏教塾 事務局)