機関誌『佛教文化』第221号(令和8年1月10日、東京国際仏教塾刊)は、立正大学仏教学部講師の佐野靖夫先生による「仏教概論――仏教の伝播・思想・倫理規範———」と題した第三十七期スクーリング講義録のダイジェスト版を特集しています 。

本号は、現代の激動する世界情勢(コロナ禍、紛争など)の中で、二千五百年前に説かれたお釈迦様の言葉がどのような意味を持つかを問い直す実践的な内容となっています 。
佐野先生の講義は、以下の5つの具体的なテーマを中心に展開されています。

1. 仏教の伝播とそのバリエーション

  • お釈迦様の「待機説法」(人物に合わせて教えを説く)により、受け止め方の違いからアビダルマ(法の解釈)が生まれた経緯が説明されています 。
  • 仏教は、セイロン(スリランカ)の上座部仏教(テーラヴァーダ)が托鉢を基本とするゆえに広がりが限定されたのに対し、紀元前3世紀頃にガンダーラ地方に伝わった大乗仏教は仏像とともに大きく花開き、中国・朝鮮半島・日本へと伝播した歴史が述べられています 。
  • インド仏教は6世紀頃のイスラーム侵入により死滅に向かい、ナーランダ大学などの研究者たちがヒマラヤを越えてチベットに逃れ、チベット仏教へと継承されたという歴史的経緯が解説されています 。

2. 人として守るもの(五戒)と「苦」の再解釈

  • 「人を殺さない」などの五戒は、警察や治安が存在しないお釈迦様の時代において、本当に実現するのかを現代に生きる私たち自身が考えるべき問題として提起されています 。
  • 苦しみを示す「ドゥッカ」は、中国で「苦」と訳されましたが、佐野先生は「思う通りにならない」という意味で捉える方が、生まれる苦しみや老病死、あるいは愛別離苦などの八苦を理解する上で適切ではないかと考察されています 。

3. 正しいこと(八正道)と「無慚・無愧」

  • 「正見」や「正思惟」といった八正道の「正しいこと(正)」とは何かという素朴な疑問に対し、初期仏教では「無慙」(自らの行為を顧みて恥じないこと)と「無愧」(他に対して恥じないこと)がない状態が「正しいこと」であると説かれていたことが紹介されています 。つまり、「正しい」か否かの判断基準は、神ではなく、あくまで自分自身の中にあるという仏教の前提を示しています 。

4. 実践的態度「無我と十難無記」

  • お釈迦様がヒンドゥー教のアートマン(我・霊魂の存在)を否定し、無我の教えを説いたことが、仏教の根幹として論じられています 。
  • ヒンドゥー教が原因と結果がアートマンに薫習される「自業自得」の考え方であるのに対し、仏教は原因と結果の間に「縁」という新しいファクターを持ち込み、非情な殺戮者でも仏縁があれば悟りを開ける可能性を示した点が、大きな特徴であると強調されています 。
  • 十難無記(じゅうなんむき)とは、「世界は常住か断滅か」「身体と霊魂は同一か別か」といった形而上学的な問いに対し、お釈迦様が語ることを避けた実践的態度であり、語ること自体がマイナスのところに陥ることを避ける知恵であったと解説されています 。

また、本号には「令和七年度 宗旨専門課程」の開講報告も掲載されています。

  • 浄土真宗・臨済宗・曹洞宗など全七宗派で専門課程が開講され、36名が参加しました 。
  • 浄土真宗コースでは、大熊学監の「法然聖人は『念仏は仏教である』と語り、親鸞聖人は『仏教は念仏である』と語った」という言葉が引用され、念仏が「阿弥陀仏からの呼びかけに応じるもの」であるという視点の転換が語られています 。
  • 臨済宗コースでは、坐禅や経典を「日常の呼吸の中に親しく置いていく」姿勢を学び、修行への「覚悟」を定める二日間であったと報告されています 。
  • 曹洞宗コースでは、坐禅、読経、食事作法などの修行を通し、教えは言葉や理屈だけでなく「僧侶や修行者の佇まい、人と接し方、その在り方そのものに表れる」という深い気づきを得たことが記されています 。

本誌は、仏教の根幹的な思想を歴史的・現代的な視点から深く掘り下げるとともに、専門課程で学びを深める受講生の熱意あふれる様子を伝えています 。